大好きだった祖母が天国へ旅立ってしまってから
一年の時が過ぎ去りました。
見た目が若く常にパワフルだった祖母、
おばあちゃんと呼ばれる事が嫌で
私は大ママという意味で”まぁちゃん”と呼ばされていたので
ここでもまぁちゃんと呼びたいと思います。
まぁちゃんは昭和初期に大阪府で生まれ
若かりし頃、舞台に立つ事に憧れ、
宝塚音楽学校に在籍していたそうです。
でも私が何を質問しても「大昔の事だから覚えていないのよ」
当時の記録は?と聞いても
「戦後無くしてしまったり友達に譲ったりで無いのよ」
と笑って誤魔化す一方で。
まぁちゃんの影響で始められた芸能のお仕事に関しても
アドバイスはくれるものの
やはり自分の過去を語る事はほとんど無く
最後まで本人の口から真実を聞く事は出来ませんでした。
そんな中、
突然やってきてしまったお別れ。
悲しみのどん底から這い上がれずにいた私のもとに
まぁちゃんが長年最も親しくして頂いていた
親友であるおばさまが駆け付けてくださり一言
「あなたのおばあちゃん、
亡くなる一ヶ月前に宝塚の卒業証書を受け取ったのよ。」
後日、その方からお手紙と一緒に
ある新聞記事のコピーが同封された
大きな封筒が届きました。
新聞記事のタイトルは
『タカラジェンヌ67年後の「卒業」』
今年で創立100年になる宝塚音楽学校の歴史には
戦争の影響で卒業の証しを手に出来なかった
生徒の方々が居らしたそうで
「その卒業証書を預かっているが
行方が分からず渡せていない5名の同級生が居る」
という元生徒の方のインタビュー記事でした。
読み進めていくと
その5名の中に
私のまぁちゃんの名前がありました。
当時、この記事を偶然見つけたその親友の方が
すぐ新聞社へ連絡を取ってくださったそうで
卒業証書を受け取った本人、
とても大切そうに胸に当て
幸せそうな表情を浮かべて
それはそれは喜んでいた
とお話を伺いました。
良かった
本当に良かった。
最期まで決して自分を多く語らず
かっこいいところしか見せず、
離れてしまってから分かる事が多過ぎるけれど
でもそれがまた
まぁちゃんらしいのかな
それでこそ私の憧れのまぁちゃんだなと
今、改めて祖母を誇りに思います。
33期生
会津緑
私の中で永遠のスターとして
今までもこれからも輝き続けます。